「SEOライティング」がコンテンツをダメにする
2015/08/04カテゴリー:SEO対策コラム, コンテンツマーケティング
Webマーケティング系の業界では、コンテンツマーケティングとかオウンドメディアという言葉が流行っています。企業がそれぞれWebメディアを開設し、そこで記事や動画などのコンテンツを発信していき、広告に頼らないWeb集客を実現しようということです。
このデジタルマーケティング手法が注目されるようになって、各企業はあわてて「これからはオウンドメディアだ」などと騒ぎ、社内でコンテンツ制作のスキームを作ろうとか、いや制作は外注しようとか、さまざまな議論やトライアンドエラーがそこかしこで起こっています。
そして当然、そのニーズになんとか応えようとしたり、要らないニーズを無理やり掘り起こそうとする制作会社やマーケティング会社が現れて、なんだか無茶苦茶なことになりつつあるなぁという感覚で見ています。
さて、このトレンドが一過性のものなのか、定着していくものなのかはわかりませんが、一定数の企業のWeb担当者さんが、とつぜん「これからは広告じゃなくてコンテンツだから、オウンドメディアをつくって記事を書け」みたいな指示が飛んできたばっかりに、あわてて「Webライティングとは…」と勉強をはじめるケースも事実としてあるようです。
そんな流れの現れか、巷には「つい読みたくなる記事タイトルの付け方」「ソーシャルでシェアされやすい記事の書き方」「検索エンジンに好かれるSEOライティング」みたいなインスタント・ノウハウがほとんど毎日のようにWebという大海に投げ込まれ、それがキュレーション・メディアとかに乗ってグワァっと押し寄せてきます。
僕はとくべつ、文章の書き方とか、コピーライティングを学んだ経験はありませんし、人以上に本をさほどたくさん読むこともありません。だから、優れた記事とは、良い文章とは、というような大それた事はぜんぜんわかりません。それでも、「いい記事」「ダメな記事」を見分ける眼だけは備えているつもりです。それはおそらく、僕が「SEO」というヘンテコな業界出身だからだと思います。
SEOライティングの危険性
SEO対策とは、検索エンジン対策とユーザビリティの間での、ジレンマとの格闘です。検索エンジンに贔屓にしてもらうための施策と、人間に評価されるための施策は、(迎合する場合もありますが)およそ相反します。記事のライティングについてもそうです。
僕が一番失笑してしまうのは「キーワード濃度」とか「キーワード出現率」というやつです。これは、特定の検索キーワードで上位表示されているサイトの文章内に、そのキーワードは何%含まれているという数値を逆算し、文章を書く際はその数値に近づけて書こう、というものです。ターゲットとするキーワードは3〜8%くらいがいいそうです。
今でこそ、「気にしなくていい」とは言われているものの、ほんの数年前まで真剣にこの数値を信じ、文章を書いたり編集するという傾向がありました。
ほんとに、誰がこんな事を最初に言い出したんだろうと思います。
それから、これは今でも続く風潮ですが、被リンク対策があります。Googleは沢山の別サイトから被リンクという「参照」を受けているサイトを評価するという仕組みを逆手に取って、被リンク発信専用のサイトやページを作ってしまえ、という横着技法です。聞いた話によれば、被リンクを送る際のアンカーテキストは散らした方がよくて、3割はメインキーワードで、残りは共起語や関連語でアンカーテキストを貼るとかいう、誰が得するのかよくわからない手法があるみたいですが僕はそんな事を気にかけたことすらありません。
単語や文章をランダムに繋ぎ合わせる、いわゆる「ワードサラダ」はもはや論外ですが、「SEOライティング」された文章は血が通っていないことがほとんどです。そこに「つい読みたくなる記事タイトルの付け方」とか「最後まで読みたくなる文章構成術」とかを学んでも上手くいかないでしょう。そもそも血が通っていないのですから。
どうも、SEO目的という体(てい)で書かれた、血の通ってない無味乾燥な文章や、そういうものを作るためのテクニックやノウハウが語られている場面を見て、反面教師的に「ダメな記事」を覚えた気がします。
記事コンテンツはどう書くべきか
曲がりなりにも「SEOコンサルタント」なんていう看板をぶら下げていますから、色々な方から「どんなふうに記事コンテンツを書けばいいのかわからない」というようなご相談を頂く事があります。が、僕自身未熟なこともあり、なかなか有効な回答をし辛いのが実情です。
おそらく皆さん「検索上位表示されやすい記事の書き方」「ソーシャルメディアでバズりやすい記事の書き方」について特別なノウハウを期待されているのかもしれません。
まず、「検索上位表示されやすい記事の書き方」とはすなわち「効果的なSEOライティング」にあたると思います。これは上にも書きましたように、血の通っていないSEOライティングをする事につながりますから、あまりオススメはしたくありませんし、「検索キーワードやテーマにそった文章を書きましょう」「hタグを適切に使って、文章構造をわかりやすくしましょう」というような、どこにでもあるようなアドバイスになってしまいます。逆に言えばそういう超基本さえ押さえていれば良くなったくらい、今の検索エンジンが進化しているという事で、これはSEO業界全体で意見が一致しつつあります。
※誤解を招かないように補足しておきますと、SEOライティングやSEOについて最低限の知識や施策はまだまだ必要ですよ。ただ過剰に意識したところで、効果がブーストされるような事が無くなってきているという事です。
じゃあどうすればいいのかと言うと、「バズりやすいコンテンツ」と共通しますが、単純に血が通っていて、読み手が喜ぶものを書くという、至極当然の答えに辿り着かざるを得ないのです。これに「なんだそれ、くだらない」「いや俺はアルゴリズムを追求して、キーワードの回数は…」という方向に行くならそれで結構ですし、「やっぱりそうだよね、じゃあどうしよう」という方向になると、こんどは勉強する事や、日々収集していくものがブワッと広がります。これが非常に楽しいです。
自分の話になりますが、僕はいま独立して、お給料という制度から離れ、自力だけでSEOやらコンテンツやらでご飯を食べさせてもらっているので、これからどうしていくかみたいな事は、自然と考えていく事になります。じゃぁ、いまコンテンツマーケティングとかオウンドメディアという波が来てるな、と思うと、ここにマジでブっこんでいくのかどうかは別としても、まずは「編集者」としての思考法が絶対に必要になるなと思うんです。そんな中、たまたまamazonのマケプレでこんな古本を見つけ、送料無料で200円というやけっぱち価格だったので2秒でポチりました。
「編集者の学校」に学んだこと
講談社の「編集者の学校」という本です。この本はすごいんですよ。
有名雑誌の編集者や作家、ジャーナリストなど、総勢39名の一流の方々が、編集や取材、ものを書くという事のイロハやノウハウについてたっぷり語った一冊で、写真からもわかるように結構分厚いんです。
僕は文学少年でもなければ本や雑誌好きでもない、どちらかといえば非常識で薄学な人間なのでここに登場する方々の名前はさっぱり知りません。「あー、なんか聞いたことあるような…」程度です。それでもこう、本を開けばそうそうたる「先生」たちがそこに座って待ってくれているような、身の引き締まる気持ちを与えてくれる一冊です。だってルーク・スカイウォーカーだって、ベン・ケノービやヨーダの凄さや経歴なんて知らなかったけど、しっかり学んで立派なジェダイになった。
この本は99年から01年まで「Web現代」に連載されていたものをまとめて発行されたものなので、内容的にはもう15年ほど前の内容になります。「先生」たちの話が始まる最初のページにはそれぞれのプロフィール写真が載っているのですが、写真だけでもその”背広”に染み付いた煙草のにおいが漂ってくるような、そんな時代感を早くも感じますが、談話の内容は全く錆びることなく、何も知らない自分にとっては、むしろ新鮮に感じます。
さて、元に話に戻します。どうすれば読み手の関心を惹き、面白がってもらえて、ソーシャルメディアでも拡散されるようなものが作れるかという話ですが、もう僕はそこに血と愛と情熱がどれだけ色濃く描かれているか、という至極シンプルな結論に回帰するんだと思います。
コンテンツの導入部分の書き方
たとえば、よくWebでは、ページ上部の文章の導入部分が大事だと言われます。ユーザーは最初の導入部分を読んで、そのコンテンツを読み進めるかを決める。導入部分が滑っているとユーザーは離脱してしまうからです。
導入部分ではどんな風にかけばいいのか、僕はこの「編集者の学校」を読んでひとつの答えをもらいました。それは、書き手・発信者が「これから始まる文章は、こんなにすごいんだぞ!」といかにドヤれるかどうか、という事です。
「編集者の学校」は、元木 昌彦さんという方が「校長」という形をとり、様々な編集者やジャーナリストさんなどと談話をしたり、寄稿されたコラムを紹介するナビゲーターを務めています。
一部のコラムでは、本文が始まる前に元木さんによる「導入文」が書かれているんですが、これがまた読み手の興味関心をグッと掴む内容になっています。ちょっと紹介します。
私の敬愛する「もの書き」、小林道雄さんに登場してもらう。
私が講談社に入って最初に配属されたのは月間『現代』編集部だが、小林さんはその雑誌のメインライターだった。
締め切り近くになると、編集部で原稿を書き始めるのだが、資料が足りなかったりすると「おい、そこの小僧っ子!」と呼びつけられ、データ集めをやらされた。それでも新米編集者の私には声をかけてもらうだけで嬉しかった。仕事ぶりはもちろんのこと、冬場、腕を通さず肩に羽織ったトレンチコート姿が恰好よく、なけなしのカネをはたいてバーバリーのトレンチを書い「小林風」を気どったりしたものだった。
ふだんは近寄りがたいが、酒を飲むと取材のイロハからジャーナリストの心得まで気さくに教えてくれた。ベトナム戦争はアメリカの敗色が濃くなり、沖縄返還運動が盛り上がりを見せていたところだった。
小林さんの目はいつも虐げられている人たちに向いている。沖縄に何ヶ月も潜ったり、警察組織の中のキャリアたちの腐敗ぶりを暴いたり、少年犯罪を取材しても目線は虫のように低く、ペンの切っ先はそうした悲劇をうみだす腐った組織や社会に向いている。
今や数少なくなった真っ当なジャーナリストの話を心して読んでもらいたい。
この導入文は、これから始まる文章がすごく価値のあるものだと感じさせる重要な役割を担っています。僕はこの小林道雄さんというノンフィクション作家さんを存じ上げませんでしたが、すごい話が今から始まりそうだぞと、自然と背筋を直してから読み進めたほどです。
ではもうひとつ、すごくワクワクさせられた導入文を紹介します:
名事件ライターの朝倉喬司氏に取材する側の心得を教示してもらう。
朝倉氏はかつて『週刊現代』の敏腕記者で、二十数年前に私と、「男と女の事件簿」という連載を、小柳明人記者と組んでしてもらっていた。
ハンチングをかぶりひょうひょうとした風貌からは想像できない、取材するときの厳しさや綿密さは横で見ていて学ぶことが多かった。
事件の加害者の家へ行くと裏手に回りゴミ箱を漁る。犯人がどんなものを食べていたのか、何を読んでいたのか、その手がかりをゴミの中から探そうというのだ。
ハンチングをとり、「どうもどうも」といいながら取材対象の懐へすうっと入っていく手法は誰にでもできるわけではないが、三十数年、事件記者として研鑽を重ね、今は事件だけではなく庶民の裏面史とでもいうような独特の分野を切りひらいている朝倉市に取材のノウハウを明かしてもらう。
「まじかよ」とつい言いました。そんな、ドラマみたいな、刑事コロンボみたいな人がいるのかよと、すごくワクワクして、もう次に続く本文を読みたくて仕方なくなったんです。やはり朝倉喬司さんという方を存じ上げなかったにも関わらず、いっぺんに引き込まれちゃったわけですから、すごい導入文だなと思います。
血と愛と情熱を宿す
どちらも、「これから始まる文章はすごいんだぞ、心して読めよ」という、書き手の鼻息というか、息遣いが伝わってくると思いませんか?
友達とかに「この動画見て!めっちゃ面白いから!」「これ、超美味しいから食べてみて!」というのとほとんど一緒です。すぐれた導入文というのは、そういう事だと思うんです。血と愛と情熱をはっきり感じます。こればっかりは、数字なんかにはできないぜ。
だからまず、書き手や発信者がいかにそのコンテンツを好きでいるか、スゴイと自分で思っているか、そこから始まるんです。自分でよくわからないものは人に紹介しようがないし、血も愛も情熱もないでしょう。そこにSEOライティングテクニックみたいなのをいきなり塗りこんでいくのは順序が違うと。SEOライティング先行で考えて、肝心の血と愛と情熱的な部分を無視していたらコンテンツは間違いなくダメになります。
皆さんも、Webで何かを紹介しなくてはいけなかったり、何かのためにテキストを書かなくてはいけないときは、どういうポイントで「こいつはすげーんだぞ!見てくれよ!ホラ!」と自分で思えるか、そこから始めていくべきだと思います。そうすれば後は自ずと仕組み上がっていくはず。
「結局そんな事かよ、当たり前のこと言ってるだけじゃねぇか」とお思いになるかもしれませんが、そうなんです。まぁ、そもそも世の中はシンプルなものなので…。